最近自分で見たくない側面を見つめることがあって、それについての気づきがあったので記事にする事にしました。
私の欠点ですが、あげれば色々出てくるのですが、見たくない、触れたくないという欠点があります。
それは、誰かの態度なり表情なりに不安というか疑念が出てきた時に、相手を遮断したくなるという欠点です。
相手に会わないようにしてしまいます。
そういう時は何か自分の中で強い制限がかかったような状態です。
嫌いというより嫌だと思われたくないから頑なに近寄りたくないという感じです。
そういう時は、何か欠けている部分があって気分が悪いけど気をそらしたいという気持ちが出てきます。
過去にも何回もそういう気持ちになっていますが、いつの間にか終息し解決してきました。
この気持ちを今回は、ちゃんと見つめてみることにしました。
プロセスとしては、相手の表情や態度から自分とは話したくないんじゃないか?という疑念が浮かぶ所から始まりました。
それから話しかける気が起こらなくなり、会ってもどういう態度を取っていいか分からなくなり迷うので、会わない状況を作り出そうとしました。
自分のそういう心の小さに不快感を感じました。
どうしてそういう気持ちになるのか?と自分に問いかけた時に嫌だと思われたまま接したくないという気持ちが出てきました。
そういう気持ちを感じたら涙が出てきたので泣きました。
私は、どこかでそういう自分の気持ちを無視しがちだったかもしれないと思いました。
泣いて終わらせて、そういう不都合な自分から目をそらす。
そういう自分の心から目をそらす部分があるから、たまに挨拶しても不特定から無視されてしまうような事が起こるのかもしれないと思いました。
私は、欠点がある自分は、悪くないと自分に話しかけました。
パズルのピースは、凸凹がある。欠けている部分と秀でている部分が必ずだれでもあるし、合い補うためにそうなっているから、欠けてていい。
欲望と恐怖の波動においては、強い制限と強い衝動の両極が表れる。
恐怖も元々は、悪いものではない。
理性が行き過ぎたものが恐怖であるから、この制限を否定せず理性として活用すればいい。
そうすれば欲望と恐怖という過剰な波動は、通常の波動に戻りブレーキのかかり過ぎも解消されるだろう。
欲望と恐怖の波動内では過剰な制限がかかるのも仕方はない。
まずは、自分を満たすこと。
自分が満たされていないのに他人を満たせるわけがない。
自分の嫌な部分も受け入れよう。自分を満たしていこう。
そう考えていると嫌な気持ちが晴れてきました。
そして距離を置こうとしていた相手との接点が出て来た時に自分から話しかける事が出来ました。
多分、欲望と恐怖の波動から抜けたので、制限が外れ勇気が出て来たのだと思います。
また、自分だけではなく欲望と恐怖の波動においては、人も嫌な態度を取ってきます。
それは、自分の内面が恐怖と欲望の波動まで波動が下がった合図でもあるので、それも悪いとは言えません。
悪いと思えるものの中に良い部分を探すと案外良い部分が見えてきます。
今回自分の内面を見つめて欠点を克服したのかというと違うと思います。
人は、波動の上がり下がりを繰り返します。
波動が上がっていた時には長所だったものが波動が下がった時には欲望と恐怖の波動になり欠点として働きます。
疑いや不安が出てくるのは、高い波動から低い波動へ転換する合図だと思います。
光と闇を行ったり来たりするのが人間なんだと思います。
しかしながら闇に傾いた時出来るだけ楽に、それを乗り越えられる自分でありたいと思うのです。